2010年 08月 01日
8月ですね |
笠間から我孫子に戻った金曜日、お世話になった加藤正二郎先生の個展へでかけました。
加藤先生は私が横浜で勤務していた時の同僚で、美術の先生です。
手織りを公募展での出品を促され、いくつかの展覧会に出展出来たことは私にとって大きな一歩でした。
さらに「手織りで個展」と後押しして下さり、何もわからぬまま、先生におんぶにだっこで
横浜伊勢佐木町の ギャラリー ミロでの個展を2年に一度、計4回開くことが出来ました。
先生は学校に勤務しながらも文化庁のテストに合格し、タイのチュラルコーン大学(芸大のような)で研修、あるいは講義をされたり、1年間すごされたんです。
日本でも数々の大賞は受けられていらっしゃいます。
アジアから日本画を発信する画家として、中国の美術大学から講師の依頼があったりされる方なんですね。
そのような私としては神様のような存在の加藤先生ですから銀座一丁目の オーギャラリーに飛んでいきました。
昨年のグループ展「粋な暮らし」に来ていただいてから久しぶりにお会いできるのを楽しみにして。
ところが、火曜日に先生のお母様が亡くなられてこの日はジム処理があるので、ギャラリーにはお出でにならなかったのです。
耳に障害のあるお兄様とふたりだけになられた・・・
なので、おとこわりしてから写真だけ撮らせていただきました。
これは入ってすぐ左のところに展示されていて、あまり先生らしくない色だけどなんだか希望に満ち溢れた感じです。先生が大好きだったお母様のよう。
星になっていかれたお母様は2年前に亡くなられたご主人さまの所にいかれてひさしぶりの逢瀬をお喜びになっていられるに違いありません。
お寂しくなってしまわれた加藤先生、お会いしたかったです。
でも、
きっと先生のことですからいつもの顔でいつものような会話をして「ありがとう」と言われるだけでしょうね。
「加藤先生、またね」
加藤先生は私が横浜で勤務していた時の同僚で、美術の先生です。
手織りを公募展での出品を促され、いくつかの展覧会に出展出来たことは私にとって大きな一歩でした。
さらに「手織りで個展」と後押しして下さり、何もわからぬまま、先生におんぶにだっこで
横浜伊勢佐木町の ギャラリー ミロでの個展を2年に一度、計4回開くことが出来ました。
先生は学校に勤務しながらも文化庁のテストに合格し、タイのチュラルコーン大学(芸大のような)で研修、あるいは講義をされたり、1年間すごされたんです。
日本でも数々の大賞は受けられていらっしゃいます。
アジアから日本画を発信する画家として、中国の美術大学から講師の依頼があったりされる方なんですね。
そのような私としては神様のような存在の加藤先生ですから銀座一丁目の オーギャラリーに飛んでいきました。
昨年のグループ展「粋な暮らし」に来ていただいてから久しぶりにお会いできるのを楽しみにして。
ところが、火曜日に先生のお母様が亡くなられてこの日はジム処理があるので、ギャラリーにはお出でにならなかったのです。
耳に障害のあるお兄様とふたりだけになられた・・・
なので、おとこわりしてから写真だけ撮らせていただきました。
これは入ってすぐ左のところに展示されていて、あまり先生らしくない色だけどなんだか希望に満ち溢れた感じです。先生が大好きだったお母様のよう。
星になっていかれたお母様は2年前に亡くなられたご主人さまの所にいかれてひさしぶりの逢瀬をお喜びになっていられるに違いありません。
お寂しくなってしまわれた加藤先生、お会いしたかったです。
でも、
きっと先生のことですからいつもの顔でいつものような会話をして「ありがとう」と言われるだけでしょうね。
「加藤先生、またね」
by rui-studio
| 2010-08-01 19:04
| 日記